囲碁の催しから~『名人』(川端康成)のこと~

暖香園

2011年04月25日 12:00

明日、ホテル暖香園では、囲碁の大会を目的とした宿泊のお客様

がいます。

ホテル暖香園と囲碁・・・・・・

深いかかわりがあります。

文豪『川端康成』にゆかりがありますので、ご紹介します。


川端康成は、『伊豆の踊子』を始め、伊豆を素材にした多くの作品を



残していますが、暖香園も舞台になった長編小説も発表しています。



いぜん、熱海の図書館で借りて読みました。

その時のことです。



『名人』です。

昭和13年、家元制度最後の本因坊であり古い時代の権威の象徴であった第21世

本因坊秀哉(しゅうさい)64歳名人と挑戦者:木谷7段(29歳)の最後の

対局の姿を新聞の観戦記者の視点から描いた作品です。



【最後の宗家本因坊】

田村秀哉(しゅうさい)名人は、年齢のともに引退を宣言し、(本因坊は、その後、

実力性となった)その「引退試合」が日々新聞(現在の毎日新聞)によって企画され

一大イベントになりました。

昭和13年6月26日対局が開始されたこの勝負は、芝(紅葉館)から箱根の対星館

~奈良屋旅館と対戦は、1日数時間づつ数日おきに内継がれ、会場を移し、勝負が続

けられました。

11月中旬からの最後の決戦の会場

暖香園でした。





川端康成は、半年に及ぶ壮絶な戦いとなった対戦を観戦記者として、この記事を書きますが、

その後、小説として仕立てたものが、『名人』です。

完全なドキュメンタリーなのですが、川端康成本人は、浦上記者、木谷7段は、なぜか、大竹

7段と、2人だけ、変名を使っています。

二年後、熱海のうろこや旅館で亡くなった本因坊のデスマスク写真を写したことも書かれて

いました。

対戦の結果は、木谷7段の勝利で終わりますが、『神奈川県・平塚市とゆかりのある』

『木谷9段』(1909~1975)は



対戦以後も木谷実と川端康成は、終生にわたる親交を結ばせ、『川端先生の碁』にも伊東のことを書き記しています。

伊東温泉では、終局を迎えるころには、早くも初冬が訪れて、物静かな暖香園の庭の植え込みの中で、ひよどりが鳴いていました。
今もひよどりの声をきくたびに名人引退碁の思い出がよみがえります。
対局が終わったあと先生から明日は、伊東線の開通する日だからゆっくりして帰ってはとすすめて頂きましたが、長い間の碁が終わって早く家に帰りたい気持ちを申し上げて夕食後、毎日新聞社の車で送って頂き平塚に帰りました。

ひよどりの事も小説に出ていました。

最後の日のことです。




鳥がしきりに鳴いた。

暖香園もこの日、最後に日なので、床の間の掛け軸も掛け替え、川端玉章のものや

置物は、像が乗った仏像や、盛り合わせの野菜など心づくしをしていたようです。

そんなことが書かれていました。



この小説、文庫本にもなっているようです。

対局があったのが、1938年。秀哉名人が亡くなったのが、1940年。

小説を書き始めたのが、1940年。以後中断。再度、筆を下したのが、

1951年頃で、完成が、1953年。

長い歳月を要した名作です。

そうそう川端作品には、珍しく女性の登場人物がほとんどいません。

私の感想は、著者は、名人には、やさしく、挑戦者には、ちょっと冷たい感じがしました。


明日の囲碁大会の開催を前に囲碁小説の舞台になったことを紹介しました。


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